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暗がりや物カゲは恐れと怯えであり、明るさとまぶしさは祈りや願いとして結びついて来る。それへと連結し、それへと導かれてゆくのである。想いや衝動といったものが、何らかのカタチとイメージを求めていて、それが同時にイメージやカタチとして象徴化してゆくのである。 抽象されていって、共通のものとして一般化され、認められ、意識され、共有されてゆくのである。これは、個人のレベルでの話なので、それが「共有」されるというのは、不自然で論理の繋がりを欠くように聞こえるけれども、要するに、「共有」されなければ残らないということなのである。また、それが意識されることもないということなのである。 そうした、個人レベルの抽象化された印象といったものは、自分の中でも社会の中でも残り続けることがない、ということなである。個人の中で抽象された印象といったものが、社会の中で共有されることがないというのは、個人的な主観の感情や、気ままで気まぐれな思い込みを出ることがなく、そうである限り、それは「抽象」されることはないのである。抽象化された印象とは言えないのである。そして、この抽象が象徴化されることもない、ということである。 |
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