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あるいは実際に、そのように感じられもするし、見えても来るのである。たしかにそうなのだ。現実とは、それが印象する象徴の世界なのである。それは仕方のないことなのであって、そうやって私たちの祖先は生きて来たのであり、そうやって、それを私たちに伝えているのであって、そして私たちもまた、そうした現実という、舞台の上を生きているのである。 それは、意識とか思考を無視した直感と本能の世界なのである。無意識の衝動の世界なのである。感覚がそれ自体で感じる生きた祖先の記憶なのである。私たち自身の魂(たましい)の世界と言ってもよい。自分自身の根源であり本質であり、そしてまた衝動と本能の世界なのである。自分自身とは、自分自身のこの肉体の中に宿る、このような祖先の記憶のことなのである。 しかし、誤解してはならない。 それは観念や意識の世界ではない。そしてまた、目に見える現実の世界でもない。それは、この肉体が生きて活動する、その作用の仕方やリズムのことなのである。肉体という現実のカタチが、そのカタチが持つ本質的な特性によって、自分自身の「種」の記憶にめざめ、そしてそれ自身が機能し、指向するところを全うして行くのである。 |
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