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2、むらがる。



様々な文化の様式にしても、そこに生きる人間の行動パターンにしても、けっして表面的な形式だけでは済まされない、なにかを持っている。

外から見える体制やタテマエもそうである。自分にとって都合の悪い「偶然」に際しての対応の仕方もそうである。そしてまた、その秩序のあり方もそうといえる。「形式」だけでは、やってゆけないのである。

たしかに形式であることによって、画一化・規格化・均一化を進め、処理と秩序といったものの能率を高め効率をよくする。形式のこのような外面性は、ものごとの内面というものを無視するもので、内実におかまいなく外面だけでものごとの良し悪しを判断するし、また判断できるようにもするし、さらにまた、それが「正義」であると思わせてくれるようにする。これを合理的というのである。

そうやって際限なく内実が失われてゆき、内容が伴わずに消えてゆく。カラッポでむなしく、意味のないものへと変質してゆく。現実に合わないものになってゆく。形式だけとなり内実が失われて行く。そしてこれを合理性といって、そうやって、だれもかもがそれに群(むら)がって生きて行く。まるでドラマの「水戸黄門」のように、誰かが自分のことを助けてくれるものと信じている。

だれか「偉い人」が自分のことを助けてくれて、自分は何もしなくてもよい、、そしてもっと正確に言うと、「自分は何もしてはならない」ものと信じている。まことにおめでたい話である。この世に生まれた時からずっとそのように教育を受けシツケられてきたのである。それしかなく、他の生き方というのを知らず、また他の生き方というのが何か悪いことのように教えられシツケられてきたのである。


 戻る。            続く。

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