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従ってまた、不可解で不思議なことが起こる。見える現実を無視して、現実というのが何か別の世界の、異世界の現実のように見えて来たり、思えてきたりするのである。これは、どういうことかと言うと、見える現実を無視して、そして同時に、見える現実を通して、そこから何か別の世界が見えて来るということである。 それはつまり、現実が表現していた何かの記号といったものが、それまでとは別の意味を持つにいたったということである。そして、それ以前にそれは、自分の中で何かが変わったということであり、、自分の中で何かが発見されるか、あるいは、何か今までなかったものに気づき始めているのである。 つまり、自分がどこか変わり始めているということである。めざめであり、自己の発見と言えるものなのかも知れない。いずれにしても、それこそが自分自身の真実のすがたであると言ってよいと思う。 なぜなら、それは他人から与えられるか、伝えられたものではなく、自分で気づき、自分で、自分の中で発見したものだからである。それは自己の内的必然性に基づくものだからである。それこそが、自分が自分であることの同一性であり、自己の存在の必然性だからである。 中世ルネサンスでいうところの発掘・発見・再生とは、このことではないだろうか。 |
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