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そうした意味で世界とは、何らかの象徴と化した現実が、種としての祖先の記憶の中で記号化された世界と言える。そして、祖先の記憶が現実のカタチとして保存され、残して行ったものが、自分自身のこの肉体なのである。 種の記憶は、そうやってしか私たちには伝わって来ないのである。記号化とは、目や耳や触覚などの感覚器官が機能し作動する生理や神経作用の信号のことであって、私たち自身の身体の仕組み自体が、その信号が機能する仕組みと仕方をあらかじめ設定しているのである。 人間自身の身体のカタチそのものが、そうした種としての記憶の表現であり、祖先の記憶が結実した結果なのである。骨格・筋肉・臓器・神経・感覚などの身体のすべてがそうなのである。 そしてその生存の仕方もそうであり、さらにまた、意識の様式もまたそうなのである。それが、私たちが生きている現実の条件であり、その存在の前提なのである。自分自身そのものなのである。 つまり、なにを言いたいのかというと、私たちはそうした記号と化した現実の世界を生きているのであって、そしてまた、それが人間の存在の仕方であり、自分自身の感覚の感じ方なのであり、また、そうした記号と化した現実だからこそ、そこから何かしらの意味が見えてくるのであって、また、伝わっても来るのであって、それが人間の現実であり、人間的な感覚なのである。 |
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