index< 日誌< ar象徴< 「自己の発見」p11/ |
しかし、たいてい「色」も見えない。見えてくるのは、薄暗い背景の中から、揺れ動き、無限の変化をくり返す、正体不明の、白いマダラ模様以外に何もみえない。それが揺れ動きながら、繋がり重なり折り合わされ、途切れ途切れになりながらも、めくれて、はがれて、えぐれて行き、その軋んだ狭い間から何かが滲んで来て、溢れて繋がってゆき、そうしてだれかの人影のように見えてくるのである。 そして、そうしたことが、目の中の模様としてだけではなくて、音や気配としても感じられてくる。現実から切断されたところで、非現実と化した現実の断片を見ているのである。現実を透過して何かが見えて来るというのは、このことなのである。 あるいは、心の中が「見える」というのもそうである。現実が、現実から離れたところで、現実とは全然別の何かの象徴として見えてくるのである。生きている現実の時間と場所を素通りして、透かして、何か現実とは別の世界を見ているのである。 例えば、色模様や、音の調べや、肌に触れる何かの気配として。それは、言葉では表現できない直接的で、直感的で、衝動的なものなのである。第六感というものかも知れない。それは、非現実の自分自身の感覚の世界を見ているのである。 |
index < 日誌 < ar象徴< 「自己の発見」p11/