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自分たちの文化や歴史といったものは、現実の世界にあっては、踊りや歌、文字や言語、あるいは同じことだが、映像や音声によって表現されるし、そうやって理解もされるし、相手や自分自身に対しても伝えたり、知ることができるし、そして保存もすることが出来るのである。昔ばなしや、神話や、叙事詩などがそうである。 そうやって、私たちは生き続けているのであり、そして、そうやってそれを子孫に伝え、「種」を継続してきたのである。そうしてのみ継続し得たのであって、そうして生きて来たからこそ、現在も私たちは生きて来れたのである。それは、私たちという「種」が現在も生きている、ということ自体がそれを証明しているのである。 しかし、衝動といったものは、それとはかなり異なる。それは意識されざる無意識の世界であって、意図ものぞみもしない直感や本能の世界なのである。私たちが生きている現実とは別の世界なのである。非現実的で、非日常の、意識されざる感覚の世界なのである。自分の中にあってなお、自分の意識の届かない世界なのである。 しかしまた、そうであるならば、それはいったいどうやって、それを自分の記憶に残し、そして、それを後世の子孫へと伝えて行くのだろうか? |
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