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そうしたことは、自分にとって見れば、見えて来なければならないし、見えるはずだし、見えていなければならないのである。実際に「有るはず」のものだからである。しかし、「有るはず」とは予見なのであり、実際にはまだ見ていないのであり、つまり自分の偏見なのである。 自分というものの感じ方が作られた、社会的な暗黙の合意事項や常識でもって現実を見ているのである。あるいはまた、これを個人的に見れば、自分自身の限られた経験や記憶に基づく主観、つまり、個人的な思い込みと気まぐれの結果なのである。 こうしたことは多かれ少なかれ、見る側の想いとか感じ方といったものが、ものの見え方、考え方に大いに入り込んでくる。それと意識することなく、知らず知らずのうちに入ってきている。そうした意味で、「ぼやけて見える」というのも、主観的である。 そこには、レンズ(水晶体)のピント合わせと、その方向、そして有効視野の調整が、本人によって行われているからである。人間の感覚は、それを意識せずに行っている。肉体の生理作用として堆積されてきた無意識の肉体の記憶が、それを自動化しているのである。 これが、ぼやけるという見え方の理由となっているのである。ピントに合わないもの、視野からズレているものは、ぼかして見えなくしているのである。あるいは、ぼかすものとそうでないものとを、あらかじめ区別して見ているのである。 |
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