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人間は、意識せざる社会の枠組みと、その原理、秩序の世界を生きているのであって、これがまた、現実に生きている人間の生き方、感じ方といったもので、すべては、始めから条件づけられ、制約された枠組みのなかで方向づけられ、秩序づけられている。 それは、感覚器官のそれぞれにとっても、まったく同じことが言えるのであって、たとえば、自分の目がなにを見、なにを見てはならないか、あるいは、自分の身体が何に触れ、そして触れてはならないかというのは、あらかじめ定められているのである。 それは、先天的な感覚の機能そのものの中にもあるし、あるいは、この世に生まれてからの自分の経験によって得られることもあるし、親やまわりからのシキタリや常識、礼儀や作法、シツケ(躾)によることもある。 あるいはまた、権威(えらいひと)による、法律や道徳の強制力によるものもある。いずれにしても、感覚といったもの、感じ方や、その考え方といったものが、外からやって来て、人々を支配しているということである。 もちろん、内面という本人自身の主体性や自己意識に基づくものもたくさんある。人間だから。もしもそれがなければ人間と言えない、自分自身の考えや、自分の欲求や衝動といったものである。 しかしまた、だからボヤケているのである。見るのでも、見ないのでもなくて、その中間の自分の意思、本人の選択にまかされているのである。そうしたことが、ボヤケるという状態であり意味なのである。 |
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