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「 首領様の世界」



大切な、何よりも大切なものが、この世から消えて行く。それは同時にまた、永遠に失われることのない精神の世界へと、それが昇って行ったことを意味している。それはもはや、誰にも奪われることのない、永遠の世界を生き続けるのである。しかしそれは、現実の世界では、あってはならないことなのである。

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最高尊厳、あるいは固定した永遠の道徳律。だからこそそれが、一人の皇帝が代弁し得るのであって、そしてそれは、一人でなければならないのである。それは、取り換えられたり、変えることが出来るものであってはならないのである。

しかしまた、そんなものは世の中にないのであって、だからこそ、これが宗教なのであって、人民が信じる世界なのである。そして、この「信じる」ということこそが宗教なのであって、そして、これがこの社会のシステムであり、前提なのである。そしてまた、この社会の正体なのである。

神が地上に降りてきたのである。しかも、現実の生きた個人として。人々の目の前にいる神は、人々の心の中にではなく、現実の世界にいる。もはや心は見失われ、人々は現実の世界から、自己の心のなかへ逃げることもできずに、タマシイは死んでしまう。

神は、地上へ降りて来てはならない存在なのである。自分の心は他人に譲り渡してはならないのである。たとえ相手が神であってもである。なぜなら、神は自分自身の精神の世界にしか存在しないものだからである。

だから精神が破壊される。内面が消えてなくなって、自己の内面というのが、神としての「首領様」の精神に吸収され、乗っ取られ、憑りつかれ、失われてしまう。

ヒトラーも、毛沢東も、金正恩も同じものであるが、それは人民が望んだことなのであって、自分自身の魂を、自分から進んで他人に譲り渡した結果なのである。自分を捨てて、自分の魂を他人に求めた結果なのである。他人をアテにし、他人にすがって生きて行こうとした結果なのである。

しかしそんなこと、どこの世界、どの時代でも同じではないか。人間は誰もかも、他人にすがるか、あるいは他人を利用して生きている。そうである限り序列と差別、迷信と思い込みは、どうしても必要なのである。

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