index< 日誌 < hgヘーゲル 、ag儒教 < 18-324/「東アジア社会」p6


 
1、抜粋p188


「東洋世界の原理は、人倫としての共同精神が権威として現れるというところにある。個人の気ままなふるまいは、東洋において始めて権威のもとに抑制される。共同体としての人倫の概念は法律の形で現れるが主観の意思にとって法律は外から支配をふるう権力であって、心情や良心、形式的自由といった内面的なものが、すべていまだ存在しない。だから法律はまったく外部から力を及ぼしてくる強制法となる。共同体としての人倫の掟の内容は、まったく正しく秩序だてられているとしても、内面的なものが外から強制されるということに変わりはない。命令を下す意思は存在するが、内面の命令に従って義務を実行するような意思、主体としての当事者が存在しないのである。精神が内面性を獲得していないために、精神は自然のままの精神としてしか現れない。共同体と個人の精神が、いまだ区別、ないし、対立するといったことがないのである。」 ヘーゲル。

東アジア社会においては・・・、
「共同体としての人倫と主観の自由が、互いに区別も対立も経ることなく統一され、まさにそれゆえに、共同体がそのあり方に反省の目を向けたり、主観に受け止められたりするといったことがない。」

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