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これがこの社会の戒めであり、掟であり、これを破ることは許されないのである。このような社会にあっては、それ以外の生き方というのが存在しないのである。それは、自分が生きて行くための不可欠の条件なのである。だからまた、みんなの言うことが正しく、全会一致がよしとされ、争いというのがおこらないのである。起こりようがないのである。そして、それをまとめ、意思する中心が帝(首領様)なのである。このような社会にあっては、それはどうしても必要で、なくてはならないものなのである。 このような個人の主観がないということは、客観もあり得ず、主観は一つでなければならず、同時にまた、それが客観でなければならず、従ってまた、それを意思する主体も一人でなければならず、これが皇帝(=中国共産党)なのである。そしてまた、これが東アジア儒教社会の特徴なのである。 ものごとを、なにをするにしても、自分で考えて自分で判断してはならない、という社会なのである。意思の主体はどこにも存在せず、責任もあいまいで、そうしたことのすべてが一点に集中するのが「帝」なのである。唯一絶対の主観が「客観」なのであって、それがすべて一極に集中する。集中し得るし、集中されざるを得ず、集中しなければならないのである。これが「帝」なのである。 そしてこれがこの社会の特徴なのである。 |
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