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しかしまた、このような個人といったものが自意識にめざめる、あるいは、このような共同体の正当性に疑問を抱く、あるいはまた、自分自身の内部で自分で問い始める、といった事は許されないことなのである。それはまた、自分自身の存在の正当性を否定することに繋がることなのである。 だからそれを意識したり、疑惑を感じたり、知ったりするということは、この社会のシステムの前提を破壊することになる。共同体と自分自身そのものを否定することになる。自分で自分の存在を否定し破壊することになる。だからまた、だれからも相手にされなくなるし、それ以前に社会から排除される。 そうして、肉体的・物理的に「しつけ」られる。個人の精神の内面がぼやけて曖昧な世界にあっては、それを納得させるとか、反省させるといったことがなく、また、そうしたことが出来ず、そもそも個人いう自覚のない世界にあっては、そうしたことが誰にも理解されず、無意味でもあって、だからまた、暴力でもって矯正することになる。そうする以外に無く、またそうやって思い知らせることになる。 そしてまた、それでもって理解され、納得もされることになる。この場合の「納得」とは反省のことではない。暴力による動物的調教のことである。自己の内面で了解したり納得したりするといったことがなく、意識や思考以前の絶対的なオキテとして教えられる。だからまた、肉体的な暴力でもって教えるしかないのである。 精神の内面そのものが非常にぼやけて不明瞭なままであって、内面で理解するとか訴えるといったことが出来ずにいるのである。自分のなかで自分を省みるといったことがないのである。そうしたことは、むしろ意味不明で不可解なことのように思われている。 |
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