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4、自意識。


そもそも、自分を他人と区別する自己意識のないところで、自分で自分に納得するなどといったことが不可能なのである。この場合、本人が「納得」するというのは、自分の自己意識のないところで、他人からムリヤリ押し付けられる強制として、それを納得しているのである。そうやって、他人の意思を、自分の意思であるかのように勘違いしているのである。

これは、法律に対してもそうであって、そもそも法律というのが、自己の良心の問題であるにもかかわらず、それとは何の関係もない、みんなの合意だとか約束として理解されている。だとすれば当然、それ以外のところ、気づかないところ、見ていないところ、あるいはまた、法律で抜け落ちているところでは、何をやっても良い。他人さえ見ていなければ何をしても良い、という考えが正当化される。

もちろん、だれもそこまで考えたりしないが、この考えないというところが、知らず気づかないまま、自分の都合に合わせて何ごとも正当化してくれるのである。非常に便利で都合の良い考え方なのである。むしろ、そのような考え方しか出来ないでいるのである。自分の考えというのが無くて、また、自分で考えて判断してはならないものと「シツケ」られているのである。

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