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個人が集団から区別されることも自立することもなく、そしてまたそれ以前に、自分自身の、自分の考えといったものを持つということもない。むしろそうした、周りと異なる考えは持ってはならないものとされている。 「上の者」のいうことに従い、周りのみんなに合わせるということが、何よりも大事なこととされている。むしろ、それだけである。ほかの考え、つまり自分の考えというのが、始めから最後までどこにもないのである。それどころか、あってはならないものとされている。それ以外の生き方を知らず、経験したこともなく、想像することもできないのである。 そう思い込んでいるというよりも、そうするしかなく、そうなってしまうのである。また、そうしなければならないのである。人々のうちに精神の主体性が欠落しているために、自己の内面といったもの、自意識や心情、感情といったもの、あるいは良心といったものを、外から借りて来なければならず、それが自分のものではないにもかかわらず、自分のものとしなければならないからである。 また、そうした「借り物」を自分のものと勘違いしているのである。それ以外の生き方を知らず、気づかず、経験したこともなく、理解することも出来ないのである。そうした世界の住人なのであって、これがここに住む人々の存在の仕方なのである。そして、ここから離れたところに人々の生きて行く方法はないのである。 |
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