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そう思い込まなければならないのである。そしてまた実際にそう思い込み、そう信じてもいる。さらにまた、そうした自分というのを疑うことを知らない。この場合、そうした自分を疑うということは、自分自身の精神の破壊につながるからである。それは、自分が信じるもの、自分自身の根源となっているもの、自分自身の存在そのものに疑いを抱くのと同じことなのである。 自分の精神がどこかでむりやり切断されて、自己の同一性が破壊され、自分の存在の根拠を喪失する。心の拠り所を失ってしまう。だから、そう思い込む以外にないのである。「信じる」ということは、こういうことなのである。 こうしたことが、まさしくあらゆる社会の根底にあって、そしてまた、その前提になっている。オキテや法律と常識の、正統性の根拠となっている。自分たちの信仰、あるいは同じことであるが、自分たちが「信じるもの」となっているのである。自分たちの精神を根底から支配するものとなっているのである。また、これが自己の内的同一性となっているのである。 ここでは何が正しく、正しくないかというのは、どうでもよいことなのであって、それが絶対的に正しいということ、そう思わなければならないということ、ただそれだけが大事なのであって、ただそれだけがすべてなのである。 ただそうやってのみ、すべてがうまくまとまり、つながり合って維持されてゆくのである。そしてまた、そのこと自体が何よりも大事なのである。そしてこれがまさに、このシステムの存続の原理なのである。 |
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