index< 日誌 < ag儒教 < 18-326 「信じるもの」p/4 |
自分で自分の心の中をのぞき込むといったことがない。そうした必要もない。そうした内面性の欠落が、精神が自分の中でとどまって、自分を形成してゆくということを阻(はば)んでいる。 東アジアの精神は、実用的で実践的なのであって、現実との関係が直接的で、自分で自分の精神の世界を見るといったことがなく、そうしたきっかけも場面もなく、また、この閉じた歴史的農耕社会といったものが、自分自身の精神といったものを、外的自然や他人との直接的・現実的関係の中に限定し、押し込めている。 だからまた、実用的・実践的なのであって、感覚的にならざるを得ず、経験や実利から離れた思考だけの、純粋科学や基礎理論に向かうといったことがなく、また、心のなかで、そうしたスペース(いれもの)そのものがなかったのである。 経験的な主観と直結した芸能や技能には秀でているが、それが芸術や技術といった内面的で理論的な方向へと進んでゆく、ということがなかったのである。こうしたこともまた、精神の内面性と自己意識の欠落に対応したものである。 他人から区別される独立した自己意識といったものが、あいまいなままで、個人の自律した内面性というのが育ちにくい環境なのである。あるいは、それが育ってはならない社会なのである。 このような、自己意識といったものが育たないというところに、東アジア的儒教世界の存立の基盤があって、またそれが成立し、存続してゆくための条件となっているのである。 |
index < 日誌 < ag儒教 < 18-326 「信じるもの」p/4