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本来、自己の内面から発するはずのものが、内面を無視した、外からの躾(しつけ)の押し付けとして現れている。そしてその根拠となっているのが、共同体の意志としての「絶対的存在」なのである。 つまり、表面的・形式的なのであって、その中身や自分自身の良心といったものがない。だからそれは、自己を無視したところにある、絶対的なものでなければならず、意識や思考以前のものでなければならないのである。 これが東アジア的信仰であり、儒教の教えである。それは、自分たちの根源であって、自分たちが信じるもののことなのである。道徳や正義、そして権威といったものが、個人の良心や自己意識とはかかわりのない所に現れている。また、そうしたところにしか現れて来ない。 自己意識とかかわりのない所に道徳や正義が現れてくる。人間関係にとって何よりも大切な絆(きずな)といったものが、外からの押し付けとして現れている。上下関係や忠孝といった儒教の作法と掟(おきて)がそうなのである。 |
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