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1、場面。


人間が自分を意識するというのは、いったいどういうことなのだろうか?それはいったいどういうところで、どういう場面で、どういうカタチときっかけで起こることなのだろうか。

人間が自分を意識するのは、以前の状態、以前の自分を否定するところに成り立つものである。変化なくして否定は起こらず、否定なくして自分を意識したりかえりみるということはない。自分の中で、自分とは異なる自分を見ているのである。だからこそ自分が見えてくるのであって、意識もされるのである。

それは、それまでの自分が分離切断され、あるいは失われて、新たな異質で未知な世界へ入ったときである。そこでは、自分で、自分のことをこれで「よし」とするか、あるいは、それ以前の状態に戻るしかないのである。自分で判断するしかないのである。

もしも、それを「よし」とするのであれば、それは自分の判断と決断、そして自分の意思に基づいているのである。自分で自分をとらえているし、自分というのが、自分自身の主体としてとらえられている。そしてすべての責任は自分自身のうちにある。自分というのが自覚され、意識もされている。意識せざるを得ないのである。

そうして、自分で自分の心のなかを見ている。他人から決められたり、押し付けられたり、定められたりした自分ではない、自分自身の意思と考えでもって自分を見ているのである。それを望む、望まないにかかわらず、そうした状況に自分が置かれていて、嫌が上にも、そうした自分を意識せざるを得ないのである。

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