index< 日誌 < ar象徴 < 18-331「歴史的現実」p6- |
現実のなかで何かが暗示され、象徴されていて、そしてそれが、自分が向かうべきところへと誘い、導いている。まるで何かの符号やサイン、合図のように。まるでそうするしかないように。 しかしこれは、自らの存在の必然性なのであって、そして指向性なのである。自分が求めているものなのである。そして同時に、それから逸脱するもの、求めてはならないものを識別し、探し出して避けようとしているのである。 そしてまた、これが自分自身の生き方なのであって、存在の仕方であって、それ以外の生き方を知らず、してはならず、気づいてもならないのである。なぜなら、そうした生き方こそが社会にとってのバランスなのであって、社会の中で自分が生きることを許され、認められる生き方だからである。それ以外の生き方は、この社会の中ではしてはならないのである。そしてまた、これが、自分が生きている社会の意味なのである。 しかし、実際には、はたしてそれがいったい何のかというのが、自分でもわからないままなのである。たいてい自分でも意識することが無いのである。そしてまた、それが意識されないからこそ、それがまた日常の無意識の常識になのである。人間を無意識のうちに包み込み、支配し、拘束し続けるのである。 |
index < 日誌 < ar象徴 < 18-331「歴史的現実」p6-