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自分の精神といったものが、それ自体で無意識のうちに現実の世界に出ている。自分でも気づくことなく、生身のむき出しのままでさらされている。そしてそれが、いつも何かを指向しているのである。 なにげない、どうでもよい、どこにでもあるようなものから、なにか無限で永遠なものを感じ、意識してしまうのである。現実というのを、そうした象徴と暗示の、何かへと導く符号や合図のように感じられてしまうのである。 それは永遠で限りないものであって、そしてそれがまた、自分自身の精神のすがたなのである。現実世界の、なにげないどうでもよいものの中に、自分自身の精神の世界をのぞき込んでいるのである。そして、それが見えてくるのである。 当然である。そうした感じ方、感覚の感受性といったものは、自分自身の精神の中にもともとあったものなのである。だから気にもなるし、暗示もされるし、自分でも知らず知らずそれへと導かれてゆくのである。自己というのが、そうやって発見され発掘されているのである。あるいは初期化され、復活しているのである。 |
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