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人間にとっての現実とは、あらかじめ、すでに与えられ、定められた自己の存在の仕方である。ちょうど敷かれたレールの上を歩いて行くようなものである。そして、そこからの逸脱によって、はじめて自分の精神が見えてくる。ちょうど自己の精神が、自分の肉体を通して現れてくるように。 自分を外(そと)から見ているのである。外(そと)からでしか見えないものを見ている。見えてくるのである。否応(いやおう)なく見せつけられるのである。見たくないものまで見えてくるのである。そして迫ってきて、自分に問いかけてくるのである。 現実を通して、自己の中で眠っていた「種」としての精神が現れてくる。自分が他人のように思えてくる。自分の中で自分が対象化され、そして観念化され、世界というのが何かしらの秩序ある全体として意識され、そしてまた、自分に迫ってくる。 それは、自分が現実世界に対して働きかけるという意味ではない。それ以前に、自分でないものとして現実を見ている。自分と区別されるものとして現実を対照化しているのである。 そうして、現実世界というものを観念化して見ている。つまり、それ自体がサイズや、重さや、臭いや、さらにそれらが総合され互いに関連付けられた、何らかの目に見えない「つながり」のようなものとして現実を見ているということである。すなわち、抽象的に見ているのである。 しかし、このような自己の客体化あるいは客観化、対象化といったものは、観念的で思想的なものであって、現実世界と結びついた直接の感覚的なものではない。そうした、現実の物的世界とは直接の関係がないものである。 それは、現実世界から切り離された、自己の内部の閉じた世界である。だからまた、抽象的で観念的にならざるを得ないのである |
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