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4、合理性。


「客観」というのは、現実というのが、そしてまたその精神までもが自分と区別されて、自分との何らかのつながりの中で意識されているのである。しかしこの、自分を意識する自分とは、いったい誰のことなのだろう。自分が自分とは別のものとして理解されているのである。そしてそのなかで、自分と世界に対する、何らかの秩序や規則を見いだしているのである。

もちろん、それは合理性としてだけではない。理性では理解の出来ない、直感や衝動、本能としても感じられてくる。それは個々の現実の特殊性であり、個性なのである。「感じ方」というのが、民族や、時代や、場所によって、異なって感じられてくるということなのである。

合理性というのは、共通の論理に適う画一的なものであるが、そうでないものもあるのである。こうした理性では説明が出来ないものも現実にはある。このような合理性の枠の外にある、多様で異質なものがそうである。

合理性とは、近代という特殊な世界でのみ普遍的な意味を持ち得た「考え」ではないだろうか。近代という歴史的背景と条件がなくなれば、当然その意義も違ったものになるのではないだろうか。しかし実際には、このような「合理的」な考えは、現在でも広く支持されている。いわゆる、一般受けされやすい「考え方」なのである。

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