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そうやって、現実世界のカタチや模様といったものが、見えてもくるし、そして理解もされてくるのである。そしてまた、これが現実世界と人間とのかかわり方なのである。つまり、そうした「かかわり」のないところでは、なにも見えてもこないし、何かを感じるといったこともないのである。 そしてこの「かかわり」こそが、自分にとってのなんらかの意味や理由として、そしてその客観的な現実として、カタチや色や音や、また、肌に触れる感じとして、感じられてくるし、見えてもくるのである。 何かを感じるというのは、そのように感じる自分が居るということであって、それが自分の感じ方なのであって、存在の仕方なのである。精神が現実の世界に出てきていて、そうして自分で自分を見ているのである。 だから、この現実が見える世界というのは、自分自身の精神の現れ、その表現ということが出来るのである。そして、これが人間が生きている現実の世界なのである。 |
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