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それはちょうど人間が何かの目的を持ってそれを見ようとしている場合に、自分で目の焦点を合わせたのと同じような印象を与えもするし、そしてまた、そうなのだと思えてもくる。それに気づかないにしても、それと同じ状態を見ているのである。 自分でも意識することなくそうした世界を見ていて、それを普通の自然なこととして受け入れている。私たちはそうした歪み偏った現実の世界を生きている。 自分から、すすんでそれを見ているわけではないのに、自分の意志でそれを見ているように思えてくるのである。自分の外からむりやり見せつけられているのに、自分の本心からそれを見ているように感じられてくるのである。 しかし、それは錯覚であって本人にはそう思えても、それは他人からそう思わされている、ということがたくさんあるのである。イヤ、それがほとんどなのである。そうやって世の中というのがうまく回っているのである。それは逆らってはならないことなのである。気づいていても知ってはならないことなのである。 私たちの考えや感じ方というのは、社会の中でのみ機能している。社会が必要としているのは、それだけなのだ。個人的な偏見といえども、だれもがそれを共有することによってのみ社会が成り立つ。そうやって人々が結びついている。 それは、暗黙の了解、無言の約束とでもいったもので、そうやって人々が結びつき、つながってキズナとなっている。これが人間関係である。そしてまたそうしたことが、この社会を生きる人々にとっての自意識や感覚、居場所となっていて、それぞれにとっての「理由」、そしてこの社会に生きる者にとっての原理となっているのである。シキタリや習慣、法律や正義となっているのである。そしてなによりも自分たちが「信じるもの」となっているのである。 |
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