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もしかすると、精神というのは肉体とは別のものなのかも知れない。あるいは、精神にとっての肉体というのは、自分の肉体だけではないのかも知れない。見える現実の何もかもがそうなのかも知れない。 自分にとって目に見えるものすべてに、精神が宿っていて、そして精神は肉体を離れて、あちらこちらへと漂いさ迷いながら、乗り移っては離れて行く、そうしたものなのかも知れない。 あるいは、精神というのは、他人と共有されているものなのかも知れない。ちょうど、自分たちの祖先のタマシイといったものがそうであるように。あるいは、古風に「民族の魂」とでもいった方がわかりやすいのかも知れない。これは、もともとそうしたもので、自分でも、どうにもならないものなのである。 精神は、肉体を通して他人と共有されているのかも知れない。そうして憑りついて乗り移って行くのかも知れない。ちょうどイス取りゲームのように、あちらこちらへと憑依して行くのかも知れない。また、それ以前に、そうしたものが自分のなかにあって、自分でもそれを求める、そうしたところがあるのではないだろうか。 たしかに、たいていの人々は、他人にすがって生きて行くことばかり考えている。しかしまた、それ自体が他人のタマシイの憑依を黙認、または求めているということではないだろうか。そうすれば、人生の苦しみからも解放されるし、どんなことでも平気でやってのけることが出来る。実際、世の中というのは、そうやって成り立っているではないか。 |
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