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しかしまた、この正反対であるということ自体が、自分のなかのどこかに共通する部分があるからであって、また、だからこそそれが、無視できない正反対のものとして感じられているのである。つまり、同じ舞台の上で、共通の条件の下で演じられているということなのである。 あるいは少なくとも、そうした舞台や条件といったものが、共通の条件として共有されているということなのである。同一の感じ方を基にしていて、そしてそこから導きだされる結論というのが「違う」ということなのである。 「違う」ということ自体が、どこか、なにか共通する部分がどこかにあるからであって、それをもとにして「違う」と感じ取っているのである。また、感じることか出来るのである。 そうした共通する部分が無ければ、なにかを感じるといったこと自体がないだろうということである。感じることが出来ないということである。これは、それが同じ種であること、あるいは同じ根源を持つ者だということである。 |
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