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それは、かつての資本主義に対する共産主義がそうであったし、キリスト教に対する儒教やイスラム教がそうである。また、島国日本と大陸の中国との関係がそうであった。あるいはまた、古代アテネとスパルタとの関係がそうであった。 そうやって、それぞれが互いにバランスされている。もちろんそうでない場合もあるが、それは新たなバランスを求めて対立しているのである。そうやって、それぞれにとっての、それぞれの役割や存在の意味といったものが示され、理解もされてくる。 自分自身の、精神の自律性の意味といたものが問われてもくる。しかしまた、そうして自分というのを見ているし、確かめてもいるのである。そしてまた、こうしたことが主体としての本人と現実との接点であり、かかわり方なのである。 |
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