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すなわち、中身がカラッポで虚(むな)しいのである。だからまた、自分自身にではなく、他者にそれを求めるのである。そしてそうした他者との関係が、上下の関係なのである。それ以外にないのである。それ以外の者になりようがないのである。自分自身の中に何もない以上、そうやって自分を確かめるしかないのである。 そうして自分に納得し了解し、そしてそうした自分であり続ける以外にないのである。自分に残された処世術としては、それ以外にないのである。このような集団、もしくは社会に居る限り、他の生き方は用意されていないのである。つまり、そうならざるを得ず、そうするしかない、そうした生き方だけが許されている、そうした世界を生きているのである。 そうして、自分自身の中にあるものとしては、このような他人のなかの自分、そしてその中で自分が上か下かの関係だけとなる。これが自分の立場であり、居場所となっているのである。そして、これが社会から承認された自分なのである。 たとえそれを本人が願ったとしても、あるいは望まない不向きなものであっても、彼にとって見ればそれ以外に成り得ないのである。それが社会から認められ、与えられた彼の居場所であり、彼の自意識・アイデンティティーなのである。それ以外に無いのである。従ってそうした道だけが、彼に対して開かれているのである。 そしてこれが志(こころざし)といったもので、そうならざるを得ず、そうするしかなく、そうして生きて行くしかないように出来ている、というのが社会なのである。たとえば反対に、そうした与えられた自意識に反発して、まったく反対の自意識を持ってしまうといったこともまた、初めからそのように出来ている、ということなのである。そのようにしかならないということなのである。 |
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