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5、正義。



例えば人間の顔である。まず、目のひかり方からそれがだれかと意識し識別され、その後に輪郭がわかり、全体がたしかめられて実際だれそれであったと納得されるのである。この場合、現実に見える目の焦点距離などといったことは、ほとんど関係がない。なぜなら、顔の正面のほとんどに焦点距離があっているはずなのに、実際に見ているのは目だけだからである。

実際に見える感覚よりも習慣的な感覚が優先していて、そしてそこだけが見えているのである。意識されることのない自然な感覚自体が、どこかで自分でも気づくことなく、目的・意識的な範囲だけに絞り込まれているのである。馴れて習慣となって、そしてそれがいつの間にか常識となり正義となっているのである。

人間はそうした境界線で囲まれた世界を、自分でも意識することなく生きている。これが人間の感覚の感じ方なのである。それ以外にないのである。それしかないのである。またそれだけが自分の感覚となっている。

またそれだけが周りからも感覚として認められているし、許されてもいるのである。そしてまた意識や思考のパターンもまたそうである。私たち人間は、そうした型式化された現実の世界を生きている。この時点で人間の意識や思考もすでに規定されていて特殊化されている。馴らされ、そしてシツケられ、導かれ、方向付けられている。

このような制約された感覚だけが、人間が生きているという現実の物理的前提なのであって、また、文明という社会システムの中で、自らが存続し継続してきた社会的・歴史的条件となり得たのである。感覚や意識や思考といった、自分の中に属しているはずの何もかもが、自分でも気づかない内にあらかじめ定められ方向付けられて来たのである。

またそうしてこそ、進化という長い歴史の中で「種」を保存し継続して行くことができたのである。数万数億年という長い歴史の結果にも関わらず、それが現在の現実世界に残り続けているのである。


 戻る。              続く。

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