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だがしかし、その表現される結果から見ると、観念的な思い込みから見る世界ととってもよく似ている。つまり肉体の顔の表面から内面世界が浮き上がってきて、現れて、映しだされている。そしてその周りの辺部、外面となる外側輪郭線がぼやけて消えているのである。 そしてそのなかから、顔の特徴と印象だけが迫ってくるのである。あるいは、その精神の内面へと吸い込まれてゆくのである。これは夢の世界の印象ともよく似ている。自分でも意識せぬまま無意識にそのように見ているのである。いつの間にかそれが習慣となりクセとなっている。 これは何かの象徴として他人の顔を見ているのであって、その顔の表情や特徴から自己の精神の感じ方を見ているのである。自己の精神の問いかけに、外の世界がその見え方として答えている。それはつまり、自分自身の心の中を見ているのである。 しかしこのような、いわば、作りものの外面だけの「ぼやけ」といったものは、実際には、テレビや新聞でよく見かける。というよりも、そればっかり、それだけといったほうが実情に近い。 精神を表現する芸術家という者が、ただのコピペの達人になっている。使い捨ての、なりすましになってしまった。そしてまた、そうするしかない状況に置かれている。初めは仕方なく、そしてそれが当り前になって、いつの間にかそれだけが目的となる。精神が自滅し始めて、気が付くと消失している。 どういうことかというと、内面だけをわざと強調するものだから、内面といったものが空洞化してしまっている。内面と外面の区別がなくなってしまっている。けじめがなくなって、人格が消えて、自分と他人の境界線が消えている。プライバシーも人格も自由も消失してしまっている。忘れられ見失われている。 |
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