index < 日誌 < 2018 < 感じ方。< 18-46「感覚の偽善」 |
だから、偶然だけが支配するような個人的な気まぐれやわがまま、思いつきといったもの。 さらには感情や衝動といったもの。そうした、初めから最後まで偶然によって支配され左右されるような出来事も、その社会全体からながめて見ると、その社会の、いわば越えてはならない枠と境界線が決められていて、それは様式化されたシステムとして規定され、条件づけられ、方向づけられているのである。それが人間にとっての定(さだ)めであり、原理であり秩序なのである。オキテとか、ならわしとも言われているものなのである。 システムの仕組みや、社会のルールやマナーといったものがそれである。あるいは、個人的なしぐさ(仕草)やクセ、作法、さらに感情や性格といったものもそうである。それらすべてがその社会特有の文明の様式によって条件づけられ、方向づけられ、そしてまた、特徴づけられるのである。またそうしたシステムの中でのみ意味をもつのである。だからまた、非常にわかりやすいし、納得もしやすいのである。やはり、なるほどと、うなづけてくるのである。 個人的な気まぐれや偶然に過ぎなかったものが、文明の様式という原理からすると、それが 必然の結果として見えてくるのである。つまり、個人の性格や仕草(しぐさ)、感情や思考いったものは、その個人が生きている文明の様式との関係の中でのみ、始めて何かの意味をもつのであって、またそれは、そうした関係性のなかで形成されてきたものなのである。 そしてまた、個人の記憶や経験も、この関係性のなかでのみ理解もされ意味あるものとされるのである。それは人間がなにかものを見るとき、自分の興味のあるものだけが目の中に入って来て、そうでないもの興味のないものは、見えているはずなのに、ぜんぜん見ていないのと同じことなのである。 |
index < 日誌 < 2018 < 18-46「感覚の偽善」