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もしもそうだとしたら、確かに感情や性格、考え方、それに自分の生き方といったものは、なるほどそれで多少は理解できるのである。しかし、はたしてそれら以前のところにある、感覚器官自体の感じ方、感受性といったものは、はたしてどうなのだろう? そうした本来の自分自身の肉体の中にある生理的というか、情緒的というか、感覚的というか、そうした心とカラダのリズム、その調和と躍動、あるいは衝動といったもの。変化しつつも移りながら揺れ動く、そうした心のもち方やあり方といったものは、いったいどこから来るのだろうか? それはむしろ、風土や自然とのかかわりの中で、肉体の意識されざる感覚の感じ方として、無意識のうちに常態化し定着されてきた結果のように思えてくるのである。 |
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