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6 「自意識。」 |
もしも世の中から、こうした「理由」がなくなれば、世の中がおかしくなってしまう。退屈でつまらないものになってしまう。現在の日本のように。 表面的なカタチだけがあって、中身が何一つ変わることのない、または、中身があるのかないのか何ひとつハッキリしない、まるで夢の中を生きているような、なにもかもがあいまいで、ぼんやりした、わけのわからない世界になってしまう。 人間本来が持つ、本能的な情熱や衝動が忘れられて、平等という名の嫉妬(しっと)とねたみの世界が広がる。そして、自由という名の、無責任がはびこる。 そしてまた、こうした、ねたみと無責任を集めた人間が、社会からもてはやされる。支持され、認められ、選ばれる。そうして社会全体から、活気と生命力が失われていく。社会と自分自身の存在理由が見失われ、忘れられていく。 だから、そうした意味で、「差別」は必要なことのように思えて来るのである。それは、こうしたシステムを固定化するため、というよりも、反対にそれを打ち破り、破壊するものとして。社会の戒めと掟を破壊し、そして解決し、それを越えて、そしてさらに新たな目標へと向かうために。 今ある現実を打破し、自分をしばり付けている枠と囲いを踏みにじり、新たな現実へと出てゆくために。それが、つまり「差別」が、どうしても必要なことのように思えてくるのである。それが自分自身の本当の存在理由のように思えてくるのである。 社会の序列や上下関係、そしてシステムの硬直性を打破する要因として。やむにやまれぬ、腹に据えかねる衝動として、自らが存在するために。自らが、自由であらんとする本能、ないし本性として生きていくために。「差別」が、まさにそのキッカケと、真の人間的な衝動の源となっているように思えて来るのである。 |