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6 「自意識。」 |
ある意味でというよりも、一般的なフツーの意味で、「差別」は必要なことのように思えてくる。 差別されるのは、差別されるようなことをどこかでしているのだ、と思えてくる。僕自身は差別される側の村社会の一人として否応(いやおう)なく、それを見てきたし、感じもしてきたのである。 見たくも知りたくもないのに、実に致し方なく見せつけられてきたのである。しかし、ただし、そうしたことを感じたのは、差別される側の村から出てからのことである。 どこか、常識というかシキタリといったものが根本的にちがうのである。世間一般の常識から根本的にかけ離れている。しかしまた、世間一般の常識にもどこか根本的におかしなところがある。 すべてこうしたことは、自分が差別される側、または差別する側といった「村社会」から離れて、出て行った後に初めてわかったことである。 見えるのである。 いままで見えず聞こえず感じることも気づくこともなかったことが、見えてくるのである。自分が社会のどの集団にも属さず、利害関係からも離れたところにいると、どうしても見えてくるのである。見えてしまうというか、否応(いやおう)なく、見たくないものが見えてくるのである。 |