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2、忌々しいだけ。



そしてそれが誰かというのは、わからないけれども、おおよそ察しがつくのである。その正体が何なのかというのがわかるのである。そしてそれは、実際にどうでもよいことなのである。

それが実際に「誰か」というのがわからないけれども、それはどうでもよいことなのである。誰でもよい誰かであって、誰にでもなれる誰かであって、誰にもなれない誰かなのである。だから結局、どうでもよい人間なのである。

それはつまり、現実に存在しない人間なのであって、自分自身の心の中にのみ存在する人間なのである。そしてこうした人間は誰にでもなれるし、誰にもなれない人間なのである。現実に存在しないし、にもかかわらずいつでも、どこでも、影のように付きまとっている、忌々しいだけの存在なのである。

だから、それは「誰か」と特定できないのである。そんなことはどうでもよいことで、だれでもよいことであって、どこのだれもが、みんなが、常に感じて持っている人間の影のようなものなのである。人間である以上、だれもが持っているものとしか言いようがないのである。

それは自意識というのが自分の影として感じられ、象徴化されているのである。精神が肉体から逸脱して自分の現実を見ているのである。だから、いくら目を凝らして見ても、それが誰かというのがわからず、その目というのが見えてこないのである。当然なのです。それは、自分自身の精神の姿(すがた)なのだから。


戻る。               続く。

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