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つまり、内容といったものが限りなく空洞化していって没個性化、標準化、規格化して、つまり現実のありのままの実体から遊離してい って形式化、抽象化して、言葉だけのものになっている。 ことばだけというのは頭の中で主観的に思い込むということである。見るもの、聞くもの、触れるもののそうした感覚といったものが、そしてその意識といったものが現実の実体から離れて、口先だけのものになっている。自己の一体性が破壊されている。肉体の感覚と意識が分離し、現実が虚構の妄想の世界と化している。 そして、そうした自己意識にあっては、より強く満足のいく実感を得ようとするならば、より強力な形だけの外面の極端さを競うものとなるしかない。実際、そうなっているのが今日の状況である。それは人間の感情表現の言葉にも、そのときの顔の表情や仕草にも 如実に現れている。そしてコミュニケーションの方法もそうである。あまりにも空しく、わずらわしく、騒々しいだけのものになっている。 食べるもの、着るもの、聞くもの、話すもの、すべてにおいて目に見えるカタチだけが重視され、内容といったものはほとんど無視される。あるのは外面(そとづら)だけであって、 内面といったものがどこまでいってもボンヤリして、あいまいなままで自分自身の考えといったものが、いつもボヤけたままなのである。そんなわずらわしい、ワケのわからないものはだれもイヤがるのである。 だから例えば、消費者が購入する商品の価値判断においても非常にわかりやすい。「お値段以上」、「ワンランク上」、「どこよりも安く」。いったい何を言いたいのか全くわからない。言いたいこととか、問いかけるといったことが全くないのである。そしてこれらのスローガンの前提となっているのは、すべてのものが「くらべられる」という前提の上で成り立っている。 |
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