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見ているというのは、そのあり様を見ているのであって、そのあり様といったものが、自分にとって別の意味を持つものとして、自分に感じられてきて、そしてそれが別のものとして知られてくるのである。 たとえば大昔、「色の区別」が曖昧だったのが、そのあり様が持つ違いの意味といったものが大きくなるにつれて、色というのが様々に区別され意識されて来たのと同じである。また、それは「色」に限った話でもない。サイズやカタチ、動きについても同じことが言えるのである。 そうした現実の物体が持つ様々な性質のなかから、人間の必要に応じた部分が引き出され、特徴づけられ、それだけが特殊化して、観念の世界の中で印象づけられてゆく。関係づけられ、不要などうでもよい部分は忘れられ、失われ、消えて行く。 偏向されたその部分だけが誇大に拡張され、印象に残る部分だけが、それのの特徴として思えてくるのである。そしてそれだけが、それを見ている人間にとって必要なことなのである。 |