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従ってまた、このような「自己意識」というのは、儒教的東アジア社会にはない概念なのであって、やはり、キリスト教的な自意識がその根底にあるように思えてくる。 事実、東アジアでは技術も理論も発達しなかった。発達したのは実用と直接結びついた技能や芸能であって、そしてこのような経験を抽象化し理論化する純粋科学といったものは成立しなかった。 現実と実用から離れた、純粋に思考の中だけの、抽象的な純粋科学といったものは発達することがなかった。なぜか? 「個人」としての意識が希薄だったからである。東アジアでは、個人というのが常に集団の中でのみ存在し得たし、意識のなかでも現実の世界でも、そうであり続けたのである。個人というのが、集団とは別の人間として、自分の中で対立するということがなかったのである。 |