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5、儒教。


そしてこれが儒教なのであり、東アジア社会が永続してゆくための根本条件だったのである。従ってまた、経験が実用に結びついた技能に発展することはあっても、これが自己の内部で純粋な科学として独立し、抽象化してゆくことがなかったのである。理論のための理論として、抽象化することがなかったのである。

そしてまた、個人というのが、システムとしての共同体社会から自立して、人権やプライバシーとして確立することもなかったのである。そうした必要もなく、それ以前にそれは、この東アジア社会においては、あってはならないもの、共同体を破壊するものとして排除され続けたのである。

これが、人間のあいだの上下の関係を何よりも大切にする、儒教のシステムなのである。生き方・考え方であり、それぞれにとっての存在の理由となっているのである。

個人としての生命やその存在理由といったものは、始めから無いのに等しい世界なのである。むしろこのような上下関係こそが、自己の生命であると誤解され続けたのである。それは、いまでも多少なりともそうなのである。



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