index< 日誌 < am種 < 19-024「続、肉体の記憶」p4- |
従って、この場合の文明の終わりと滅びというのは、必然的な避けることの出来ない、自然な成り行きであって、それがこの文明の本来のすがただということなのである。それは必然であり、原理なのであり、そして、その文明の本質であり、存在の理由そのものなのである。 「滅び」もまた、この文明にとっては、自らの存在理由そのものの表現なのである。そうやって自らを現わし、そして消えて行くというのが、こうした文明の存在理由であり、そしてまた、この文明の意味といったものなのである。 しかしまた、それも、現在を生きる私たちから見ると、失われた過去の数限りない、記憶のなかの一つなのである。変化できず、適応できずに滅んだとは言え、それはそれで一つの潜在的なかくれた可能性を示しているのであって、それが歴史なのである。 そうやって私たちは自分自身を見ているのである。また、見ることができるのである。自分の中にある、もやもやとしてワケの分からない、得体の知れない未知の部分を知ることになるのである。 自分自身のなかの潜在的な可能性やその限界を見ているのである。意識されざる無意識の記憶の世界を見ているのである。忘れられ、失われたままの自分自身のなかの記憶の世界を見ているのである。 |