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3、日常。


それは、目に見える過去の遺物や文献だけから見えるのではない、むしろ、遺物や文献は、そこからそれが現れ出て来たカタチの一つに過ぎないのである。

それは、自分自身の中にしかないものなのである。自分だけが知り、自分だけにしかないものなのである。それは、自分の肉体の存在のカタチであり、構造や機能と生理の作用の仕方であり、自分だけが持つ固有の「感じ方」の世界なのである。

それが、自分が自分であるという、自分の印しであり、意味であり、理由なのである。存在の必然性であり、自律性なのである。自己の一体性であり、内的同一性なのである。そして、それがつまり、失われた自己の記憶なのである。

そしてこれが見えないところで自分を包み、そして自分を支配して動かしているのである。そうした自分自身の背景や下地、根源となっているのである。それは、いまでも生きているし、感じることも、見ることもできるものなのである。

もちろん、文献や遺物からではない。それは、自分自身が生きている暮らしのなかで、見ることも確かめることもできるものなのである。またそれは、そうした自分自身の中にしかないものなのである。また、自分自身のなかで見つけるしかないものなのである。


戻る。                    続く。

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