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2、オリジナル。


だから、それを他人に求めざるを得ず、そしてこれを、表面だけの形式的な上下の関係に見い出しているのである。それは外面的であって、上辺だけの体裁に過ぎないのであって、自分の中でそれを意識したり自覚したりすることが出来ないでいるのである。だからまた、外面だけものになってしまうのである。

自分の中で、自分で自分を意識する自己意識がボンヤリしている以上、自意識というのが、上辺だけの外面的で形式的なものになっていて、そとからムリヤリ覆(おお)いかぶせただけのものになっている。

主体というのが存在せず、自律することも、また、オリジナルであることもないのである。当事者というのが居ないのである。本人、もしくは当事者としての主体というのが存在しないのである。

自分がだれなのかハッキリせず、自分の根源というのが曖昧でぼやけたままなのである。自己の内的同一性を意識することがないのである。そんな、わずらわしくうっとうしいことは、どうでもよい、自分とは関係のないこととして気にしないのである。


戻る。                    続く。

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