index< 日誌 < c信じるもの< 19-67「自分たち」p7 |
しかし、このような西洋人やキリスト教に対する敵愾心というのは、表面上のタテマエ、言いがかり、イチャモンに過ぎないのであって、だからまた、自分たちの内部において、表面上異質な疎外された少数派がどうしも必要となってくるのであって、そしてそれに矛先(ほこさき)が向けられるのである。 そのように思うだけではダメなのであって、実際に自分で行為して始めて、自分にも納得のいくものとなるのである。自分が自分として自覚できるようになるのである。 そうやって、自分と自分たちは、優れているのだと思い込むことができるし、そうした自分の立場や居場所、考え方や感覚が正しいことのように思えてくるのである。それは、つまり、自分というのは、そうでなければならないものなのである。 それは、だれでもよいのである。そうやって自分を認めることができるのであれば、だれでもよいのである。しかしまた、それ以外に自分を確かめる方法がないのである。それが自分の居場所であり、理由であり、自意識と自己認識の証明となっているのである。 |