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だから、こうした場合、やはり感情的にならざるを得ないのである。たとえそうした感情が不当で間違ったことであったとしても、やはり、そうした感情から逃れられないのである。それ以外の生き方というのを知らず、出来ないのである。 自分というのは、そうした世界を生きてきたのである。それ以外の自分というのがあり得ず、また現実に、そうした自分というのが存在し得ないのである。自分にとってのそうした現実は、始めからどこにも無いものなのある。与えられておらず、そのように出来ていないということなのである。 だからまた、異質なワケのわからない少数者に対しても、団結して、仲間化して攻撃的にならざるを得ないのである。それ以外の対処の仕方というのが無いのである。だからまた、そうして自分と「自分たち」というのが、そのようにして始めて安心して暮らして行けるのである。また、そうした行為そのものが、自分を正当化し、確かめるものともなっているのである。 このような社会では、それ以外の生き方というのが許されないのである。それが、この社会にとっての限界なのであり境界線なのである。許される囲いであり、枠の中なのである。そしてこれが、この社会に生きる者にとっての、最低限守らなければならない、暗黙のオキテなのである。共通の認識であり、共有される意識、社会的紐帯、絆(きずな)なのである。 |