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それは、歴史的現実としての自己の肉体なのである。自分自身の存在とその生き方なのである。そしてまた、これが個としての本人の姿なのである。 だから人間は、この現実のすがたから逃げることも、離れることも、分離することもできずに、この現実のすがたを通してのみ、客観的な事実として存在しているのである。 しかしまた、そうした自分のなかにある、 そうした無意識の、意識の届かない世界での出来事や記憶こそが、自分自身のすべての源泉になっているように思えてくるのである。それ以外に無いのである。 思いだされ、意識もされるような記憶はアテにならない。不正直である。それは、後から意識が加工し、あるいはデッチ上げて、勝手に作り出したものだ。型にハメてパターン化し、自分の立場や都合に合わせて解釈したものだ。 |