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しかし、それでもやはり、自分は自分であり続けるのである。たとえいくらすがたカタチが変わろうとも、やはり、そうであり続けるのである。それは、望むとか願うとか、そうありたいとか、そうあるべきであるとか、そうした道徳的なこととは全く関係がない。 それはただたんに、そうするしかないのである。人間にはそれしか出来ないし、そのようにしかなれない、という意味でそうなのである。そして、そこから離れては生きて行けないという、ただ単に、このような現実的な制約からそうなのである。そして実は、これこそが「自分」なのである すなわち、自分というのがどこかで「変異」してしまったのである。始めは外面だけの目に見えるカタチが変わり、そしていつの間にか中身まで替わり、そして気が付いたら何もかもが替わっていたのである。しかしまた、根本的なところは何も変わっていないのである。 しかしまた、だからこそ現実の世界で変わることができたのである。自分が自分であり続けることによって、自分というのが変わることが出来たのである。自分がその主体としての当事者であることによってのみ、自分というのが変わることが出来たのである。つまり、そうして自分が自分であり続けるのである。変化を通して自己を保存し続けるのである。 |