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たとえまったく関係が無いように見えても、自分のなかですでに分かっていることの中から、何かしらのそれとの共通部分を持ち出してきて、それに基づいて形式的に表面上だけでも、それが何らかの論理的にカタチあるものとして理解しようとするのである。 また、違う部分であっても、それは何かしらの共通の部分を基準にして見ているのであって、また、そうでないと「違う」ということも知りようがないのである。そして、そうやって「違う」ということが意識されているのである。 人間は、自分がすでに知っていることを通してしか、未知のものを「知る」ということができないのである。たとえそれが誤解や思い込み、あるいは表面上だけの「こじつけ」に過ぎないとしても、そうやってしか、そうする以外に未知のものを知るということができないのである。 要は、そうする以外に理解のしようがないのである。知る、あるいは理解しようとする場合、知る手がかりといのが、それ以外に自分のなかに無い、ということなのである。それを知ろうとする人間にして見れば、そうするしかなく、それ以外に無いということなのである。それを知ることが出来るという「手がかり」になるのは、結局、自分のなかにしかないのである。 たとえそれが自分でも知らない未知の不可解なものでしかないとしても、そうなのである。自分のなかに、それに反応するものが無ければ、何も感じることが無いのであって、それが感じられ知られても来るというのは、自分の中でそれに呼応し反応する何かがあってこそなのである。 |