index< 日誌 < z自意識 < 20-62「理由」 |
まず、必要にせまられての生活上の変化があって、そしてその変化を維持して行くためのシステムの理由、もしくは「正当性」みたいなものがどうしても必要なのであり、それなしには納得も支持もされないのであって、見え透いたペテンでもインチキでもそんなことはどうでもよいことで、要するに「理由」がありさすればそれでよいのである。 どうしても理由が必要なのである。だれもがそれで納得するのである。だれもがそれを望み求め、必要としていることなのである。それがたとえウソであると誰もが知っていても、そんなことはどうでもよいことで、そうやって集団としてのシステムが安定するのである。 これがその社会にとってのタブーであり、オキテであり、そして常識なのである。つまり、正義であり、道徳であり、宗教なのである。そうやって、世の中が安定し、だれもが安心して生きて行けるのである。 それはたとえば、親子の関係がそうであり、中世の士農工商や君臣の関係がそうであり、これがその社会にとっての神聖不可侵の、侵すべからずの絶対的強制力となっているのである。 そしてこれがその社会で生きる者にとって、最低限、守らなければならない「常識」になっているのである。そしてこれが、その社会にとっての前提、土台となっているのである。そして社会とは現実のことなのであって、ここから離れて人間は生きて行けないのである。 |