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従って、このような緊張した肉体の生理の開放場所というのが、どうしても必要なのであって、身体を動かす暴力か、あるいは何かの演説でもよい、要は何でもよい、身体の、そうした自分でもどうにもならない緊張をほぐす必要がある。 そうでないと、血圧が高まる一方でやがて気を失うか、肉体的もしくは精神的に障害をひき起こすのである。このような場合、何らかの行為が必要なのである。そうしたことを自分自身の身体が要求しているのである。これは必然なのである。 そしてこの行為のための理由や目的といったものは、どうでも良いことなのであって、それが正しいことなのか、そうでないことなのかは、たいてい後から自分の都合に合わせて決められているのである。 というのは、その場その時の自分の都合と立場によって、理由の良し悪しが決められているからである。それで納得し、そうやって自分を確かめているのである。それ以外に自分を確かめる方法がないのである。そしてまた、それが、自分が信じるものとなっているのである。 |